昭和44年7月14日 朝の御理解 ★ 【入力者:岡村和一郎】
御理解第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」と。
★そこからおかげが受けられる。今朝のご祈念に、にー、たしかこういうことを頂いたんですけれどね、(?)分かるでしょ。分からんでしょ。百引く零ですね、ゼロは百と。ね。百マイナスゼロイコール百と。ね。
それちょっと書いてみてくださいね。百から零を引くと、答えは百になるわけですよね、(?)どういうようなことだろうかと。ほんで、御理解を頂きましたら42節を頂くのです。えー、42節ということは、これは、あー、いわゆる4、2というのは、「死に」ということになるですね。まあこういうところにもご神意があるでしょうね、今日の御理解に。
「死に」ということは、あー死の時。死に、死に、ね。いわゆる、まあその空しゅうなると、私が空しゅうなるということだと思うのです。ね。神様から一端のおかげを頂いておるということが、私どもであるということが、この百ということだと思うのですよね。ね。
人間は神の氏子としての、おー、値打ちあるものを私どもは頂いておるわけですよね。そう値打ちあるものがです、ね、私どもの、えー、いわゆる、我情であり、我欲がですね、ついてまいりましては、えー、様々な、あー、いわゆる自分を空しゅうするところか、ね、自分を現そうとするために、我が出てくるわけですね。その我というものの、もちろん様々な我が出てくるわけですね。
四神様の、二代金光様の、おー、み教えくださっておることの中に、えー、「憎い、かわいい、惜しい、欲しいを取れば楽じゃ」とこうおっしゃる。ね。そこに、えーおかげの頂けれる、そういう心。ね、例えば、(?)だけじゃありますまい、まあたくさんございますでしょうね。
「惜しい、欲しい、憎い、かわいい」とこう言うておられる。もちろんこの「かわいい」というのは、「かわいいと思う心は神心」とおっしゃる、あのかわいいじゃない。いわゆるあの、かわいらしいと、目の中に入れても痛くないほどにかわいらしいというですね。好きな人ができると、もうかわいいてたまらん。
この頃、テレビでいう、あの何とかいう、あー、お爺さんの、んー、えー何と(書いてあったかな?)、(みょうちょう?)ね、(米朝か?)ね。元、あの新喜劇かなんかにおりました。若い嫁さんをもらってるんですね。
その嫁さんが「どうですか」と言うて、そのまま結婚式の時に、にー、米朝に言ってました。もうあの人はずいぶんお年なんですね。
まあ、どうって、表現がしようがない。もう食べて(しまえる?)ことしか(かわいい?)って言ってるんですね。(こんだ?)もらった嫁さん。食べてしまいたいほどにかわいいっち。ね。
そういう意味での「かわいい」です。ね。憎い、かわいいと。ですから、なるほどその、そういうこと、そういうたいへんな、例えば、生きていく上にはやはり、憎い心も、かわいい心も、または、惜しい、欲しいも、その、いつの間にか身についてしまっておるものをですね、外すということは、そりゃ、なかなか容易なことじゃあない、と思うですよね。
もう実に、難しいことだと思うんですよね。けれどもですね、百を、百からゼロを引かなければ、百にはならない。私どもがその、例えば、あー、んなら、憎いとかかわいいとか、惜しいとか欲しいとかを、まあ、言うならば、あー(2畳?)ずつに致しましょうか。私ここにこう、こういう丸い円を書いてから、書いていた。ね。
丸い円を書いてみて、そん中から、その、うー、まあ、いわゆる我情我欲といったようなものをまあ、こう分けたものですよね。
「憎い、かわいい、惜しい、欲しい」といったようなものをですね、まあ(20ずつ?)にいたしましますとですね、(80?)になる。この円形を百、百なものだとするなら、80を引いてごらんなさい。後の残るもんは20である。ね。
百引く、いわば、あー80ということになるわけです。せっかくのこれほどしのものを頂いておるものをです、自分で、あの、ひろう、引いてしまうわけ(や?)ね。
これではね、なーんというところに私は、今日の42節があると思うのです。難しいことなんです。けれどもです、私達信心さして頂いておると、様々な難儀を感じます、また、突発的なことが起こってまいります。「これほど信心するのに」といったようなことが起こってまいります。けども、ね、そこんところをです、まだ信心が足りぬからじゃというのは、一生懸命拝むことが足りない、お参りすることが足りないこともそうでしょうけれども、ね、改まりが足りんのじゃと分からしてもらう。
「改まりが足りんのじゃと思うて、一心に信心していけば」と。「改まりが足りんのじゃと思うて、一心に」、そこから、苦しいから、例えば、「憎い」を取ります、「かわいい」を取ります、「惜しい」を取ります、「欲しい」を取りますと、いうことに精進するわけです。だからできるのです。
とてもとてもふつうでできることじゃないのです。切羽詰まって、例えば、好きなこれでも取ってしまいますからというてその、ぉぇー、そして「一心に信心していけば」というのはそういうことだと思うです。ね。
そこんところが、いわば、一つでも二つでもできるところから、おかげの世界というか、おかげの範囲というものが、そこにまた与えられるからですね。例えば、んなら、我情が欲を皆合わせて、まあ80なら80といたしました。
それが今度は、10改まってから70になった。そこで、おかげの場というのは30に広がった。また次の時に40に広がったというようにです、ね、信心をさして頂いているうちに、だんだんだんだん、とてもふつうではできない、改められない、いや、改まらなければ、気を、気も付いていない。
で、その(みょうちょうさん?)じゃないとばってん、もうお爺さんになったっちゃ、まあだ食べてしまうごたる、しまうごたる、そん「かわいい」と言うておる、というものが取れないわけです、ね。
いかにもそれはね、一人の人を、例えばなら愛しれるということは、たいへん幸せなことなんですけれどもね。けれども、愛してならんというのじゃないのです。ね。ね、人間には、そういうものを与えてございますから、愛していいのです。人を愛するということは、いい、いいことなんですけれども、ね、いわゆる、過ぎるということがいけんのです。
この子はかわいい、この子はかわいくないという、それじゃ神の機感にかなわんのです。
まだ信心が足りんから、というのはね、まだ改まりが足りんのじゃと思うて、一心にそのことに取り組んでいけば、ね、一心に信心していけばということ。もちろん、そこには信心、いよいよ信ずる心が、あー、ついてくることはもちろん、そこからおかげが受けられるとおっしゃる。
ところが、なかなかね、私どもの場合です、難しい。ね、これはまあ、いわば自力の信心によって助かっていこうという生き方なんですね。自分を空しゅうしていくことに一生懸命努める、自分をなくすことに一生懸命努めてのおかげなんですよね。
いわゆる自力を持って一生懸命自力(?)。そこでね、それだけではできない、ただ、もうほんとに厚かましいけれども、すがらなければおられん。
私昨夜からも非常に、また喉が渇くんですよ。今日もご祈念終わらして頂いて、また一口お水を頂かしてもらおうと思うて、まあ下がらして頂いたくらいです。とてもとても、一口くらいな水では、どうにもできないほどに渇くんです。
そこでふっと私は思い付かせて頂いた。はああ、私はこういうその、自分で辛抱して飲むまいとかというのじゃなくてですね、いわゆるその神様に、ただすがるということをしてなかった、他力にすがることはしなかったと、ふと気づかせて頂いて、今、あーあ、皆さんご祈念しておる時に、ご神米を一体頂かして頂いた。
おかげでですね、口の粘りが取れたんです。一体のご神米。これなんかはもう、まさしく他力です。ね。だからね、信心さして頂いたって、はっあー、(どっかで?)、はあご神米頂け、お神酒さん頂け、ただ取次を頂いてお願いをして帰る、というだけは、これはまあいうならば、今日の御理解から言うと、ただ他力依存ですよね。他力だけにすがっていく。
しかし、それでもおかげは受けられることだけは間違いないです。私の今朝からのご神米一体がそれです。どうにももう喉が引きつるごと(思うんです?)。ね。ご祈念をさして頂いてから、まああんなことは今までしたこともないんですけれども、ちょっと下がらして頂いて、一口のお水を頂かしてもろうてきた。それでも、やはり、喉が引きつる、ほどしにある。で、ご神米を(?)。ね。
おかげで、これはもう理屈じゃないのですね。ですから、私どもの場合、それもまたなからなければ立ち行かん、私どもは実際は。おかげの受け、私のようなものが受けられるはずはないのだけれども、ね、すがらなければおられんのだ。
痒いかれば掻いてもらいたい、痛ければさすってもらいたい。ね。そこにです、ならご神紙を貼らせて頂こう、ご神米を頂かしてもらおう、お神酒さんを頂こう、ちょっとお願いをしてきてくれ、お取次を頂いてきてくれということにもなるわけなんですね。ね。
ですから、それと、いわば相まってです、私どもが自分というものを空しゅうしていくということ。いわば、私をゼロにしていこうという精進。ね。我情我欲を離れてみると、自分が神徳の中に生かされてあることが、はっきり分かってくるようになる。そこに信心、有り難いことだと、もったいないことだと、我情我欲を外してみて分かる。ね。
昨日、あー十三日会、ふぅー。安東さん達が親子で夫婦で参っておられました。日曜たんびんに必ず、うー、参ってみえるんですね。福岡の安東さんです。それにそのー、おー、ご主人のほうは、まあそのご存知のように、もうそれこそ信心嫌いの信心嫌いの、奥さんがお参りをされると、もう(?)くらいなことではない、もう、(家?)はつめ出してしもうてから、もう家には入れん、そりゃたいへんなところをやっぱり通っとられます(?)。
それを押して押して押しまくって、お参りを続けられて10何年間、今では自分が勧んでこうしてお参りになるんですよね。もーうほんとにあの、(昨日?)聞きよりますとですね、ああ、変われば、変わられば変わったもんだと思うくらいにおかげ頂いておられる。
昨日は一日御用奉仕をさして頂きたいから、あーといって、あーちょっとその、うー作業着を持って昨日来ておられましたんですよね。そしてその、はじめてその、まあ、これはご神夢であろうというご神夢を、今朝から頂いたというて、昨日お届けしておられます。
(?)恥ずかしそうにしてから、(?)あなたがあの自分でお届けなさいませんか。お前がしてくれ、冗談じゃないて(?)。私が頂いたんじゃない、あなたがしなさらなと。ね。それがね、青海の中にね、もうそれ今までかつて見たこともない素晴らしいスルメだそうです。真っ白なスルメ。どうしてこんなにさらしてあるじゃろうかと思うような立派なスルメ。もうそれをたくさんなだけですね、売りに来てるっつ言うんです。
それで(うち?)の者が、はああお父さん、これは素晴らしいから買うてくださいち、こう言う。ところが、値段を聞いたら高いもんじゃけん、もうそげなもんな買うめいち。そげなこと(?)んなら買うてくださいち、んなら一枚だけ買おうち言うてからその、まあ買いよるところを頂いたって、こう言うのですよ。
もう私それを頂きながらね、もうほんとに神様がその、物言うて聞かしてくださるようにですね、そのー安東さんに求めておられる。これはもう家族中の者が、お父さんにどこと非の打ち所がないけれども、これだけはいっちょやめてくださいということがあるとですよ。
スルメということは改まりということなんです。もうそれこそ、今まで見たこともないほどしの真っ白い、たくさんのスルメをね、売りに来ちゃる。けどもそりゃ安藤さん、いくら高かったっちゃ、いっちょ買わないかんばい、うち中の者も買うてくれて言おうとじゃけん。いや、私もそう思いましたち。しかし、先生もそう言いなさろうと思うてその、お届けはあんまりしようごとなかったわけなんですよね。
どんなに高ーうても、一つ思い切って、うち中の者の願いに応えて、一つ買いなさらにゃいかんですよって言うてその、しかしねえ、それだけのスルメにするまでにはたいへんなことなんだ、実を言うたら。
この方はですね、そのー、とってもいいですけどね、お酒が入ると、それこそ、もう、(虎を買いも辞せん?)というほどになられるわけです。うぁーん。しかもそのために何遍ですね、命を落とされようとされたか分からない。あの大連時代なんかはですね、その時分のどっか、宴会にですね、部隊長とあのその、(当時の?)部隊長と一緒に宴会に行かれて、いっぱい(吐いて?)ですね、その、おー、部隊長にそ、その時分のあの、部隊の長っち言うんですか、もう大したね、その、あーあちら日本(ゴム?)に勤めておられて、まあ、あーあ、ま、偉い、い、いーところにおられたんです。
それでその、部隊の偉い方達を一流料亭に招待してから、ところが、自分が酔うたもんだから、もう「おいコラ」ちゅごとなったわけですね、その部隊長と。ほれでもう、それこそ烈火のごとく、側にあった日本刀を引き抜いてですね、「斬れ!」ち言うたそうです、安藤さんが。
もうここに(玉川?)さんていう人がおりましたね、今ー、神戸(?)行ってますよ。一緒だったそうです、ほらーもうそん時今からもう先生、私はもう、もうこげん(?)、それこそ安藤さんはで、二階から突き(落とそうとした?)、危ないから。う゛ん。というようにです、そういうことが何回もあったっち。
ですから、そりゃ他所でですけれども、うちでも同じようなことがあった。ね。自分で自分を見失うてしまうわけですね。だから、先を上がる分はいいけれどです、そういうふうになられんところでです、ねぇ(?)ならんというのじゃあないっち(?)。そうしちゃならんというのじゃない。ね。そこには適量というものがあるのだと。ね。
私はこの42節を今日頂いて、えー(?)それを思い、今朝から頂きます、この百引く零ということから、いろいろ思うて、一番に私の頭にひらめいたのは、食物訓、食物訓でした。ね。そして開かして頂いたら、この42(しに)(なん?)ですかね、42節の今のこの御理解でした。
食物訓とどういうふうにかん、かかわりが合いがあるかということは、「食物はみな人の命のために天地乃神が作り与え給うもの」なのですよ。ね、ですから、「何を飲むにも食うにも有り難く頂く心を忘れなよ」とおっしゃる。
その有り難く頂く心を忘れるところにです、暴飲暴食があるわけです。ね。「命のために」というところを、私は今日ですね。私どもが本当のおかげを頂くことのために、ほんとに幸せになることのためにです、私どもの周囲の、周辺のすべてのことがあるのです。ね。
例えば、私一人、大坪総一郎一人のために、様々な問題もあるのだということにもなるでしょうね。そん中には、嫌な問題もある、甘いものもありゃ、苦いものも辛いものも様々ありましょう、大坪総一郎をいよいよ、大坪総一郎足らしめるために、いわゆる幸せな氏子にしてくださることのためにです、様々な。
ところが、私どもは、苦い物は嫌だ、臭い物は嫌だ、甘い物はあんまり嫌いだというようにですね、自分の嫌い、自分というものを中心にして考えて、それを受け付けようとしない。ね。そこに偏ったといっ、栄養失調っていうんですかね、偏ったその体質がでけてくるわけです、ね。
(?)私がこうやって、もう、とにかくたまがるほど水分を求めるというのも、そういう偏った、いわば食生活なら食生活といったようなものがですね、こういう結果になっておるんだと、そこんところを(?)ていかなければならないということを思うんです。ね。
そこんところをですね、私達がね、ね、いわば私のためにあるそのことをです、ね、すべてのことを、それを実意をもってそれを見、実意をもってそれを頂け、ね。丁寧にそれを処していく。一つの問題でもそれをいい加減にしないで、実意丁寧にそのことに当たっていく。
そのことは私の幸せのことのためにあるのだから。食物はみな人の生命のためにあるのであるから、命のために頂かなければならんのに、命を害することのために頂いておるようなことはないだろうかと。ね。
例えば、安東さんの例なんかはそうです。命を害することのために、お酒を頂いておられるわけなんです。そこで神様が、いわば(家族中?)の者の願いが、「お父さん、この(薬?)を買うてくれ」。
ところが、高いから買わん。そげなこつ言わんで買うてください、んなら一枚だけ買おうと、いうような結果になってくるね。スルメということは、あら(?)せん、(いっちょも?)スルメと、いうような意味なんですよね。
しかもこりゃ、神様が求め給うという感じがいたしますね。その真っ白い、見たことのないほどしのスルメだって言うんですから。ね。そりゃ、そこを改めることは、そりゃたいへんなことだろうと思います。ほんとに、私も投げ出そうと思います、それを聞いてから。なんち(難儀な?)ことだろうかと思ってですね。(?)で分かってるんです。こうすりゃこうなることが分かってることを、こうしなければおられないというところにですね、人間の業を感じんわけにはまいりません。
ね、さあ、そこでです、(?)にすがるんです。ね、私がご神米を余計頂いたようにです。ね。本気でその気にならして頂いて、どーうでも、その先は(?)堪えんところをです、ね、お神酒さんを頂いて例えばね、このお神酒さんいっぱいで、どうぞおかげ頂きますようにと、というその願いを立てなければいけないです。
ご神米を頂かしてもろうて、その(たいき?)にすがっていくという、ね。だから、問題は、これだけはもう自分がし、もう、おー、これがきられるならば、もう死んだほうがええと、ふつうでいう、よく申しますよね、好きなものを着る、もうこれ食べちから死ぬなら、もう本望ですなんて言うけれど、それがあったんでは、あんたが助からん、周囲が助かる。ね。
そこで、「どーうぞ、神様」という、そのことにすがる気持ち。ね。そして、そこんところを、いわばご神米を頂いて、お神酒さんを頂いてです、ね、すがらして頂こうとする、私は願いがね、その願いをね、(?)としようとしないところに、家族の者の願いを受け入れれれる、その私は何と言うかね、その素直さっといったようなものが、あー必要じゃないかと、こう思うんです。
食物訓を例えば、人間の命のためにというところをです、人間の真実幸せのために、すべてのことがあるんだと分からして頂いたら、甘いから苦いから、そういうものは自分は嫌だと、それは損になるから、自分の分が悪いから、自分もそんなことでは恥ずかしいから、というようなことをですね、えー、頂く、受けていくていうことは、やはり難しいことなのだけれども、ね、そこんところを一つ頂いていくことをしようとさしてもろうて、おかげを受けなければならん。ね。
願うても願うてもおかげにならん。ね。そういう時にです、ね、例えば、その願うても願うてもと、その難儀を感ずる、いよいよ強く、ひどく感ずる時です、ね。自分の心を本気で見極めるところに、ね、先日の神訓解釈にもございましたように、それこそ、自分でもびっくりするような、愕然とするほどしのものを自分の心の中に発見する。ね。
それに取り組ましぇて頂いてです、それを除こう、そこを改まろう、とするところにです、これはまあだ信心が足らんからじゃという自覚に立たなければいけないと思うんです。ね。ねえ。
これはまあだ、改まりがいよいよ足りんのだと思い、一心に信心していけば、そこからの信心が求められるわけなんですね。ね。
そのことがなるならんは別としてです、そういう意欲を持って打ち向かうところからです、ね、そこからおかげが受けられるとおっしゃっておられる。完璧にここがこうならなければというのじゃないのです。私どもそこに気づかして頂いて、本気でそれに取り組もうとする姿勢がでけたら、そこからおかげが受けられると。ね。そこからおかげが受けられると仰せられるのございますから。
(沈黙)
「何事も素直心のひとつにて雲のうえまでも上る道がある」とこうおっしゃる。ね。素直心というものはですね、自分というものがあっては素直にゃなれないのです。あの人はほんとによー言うこと聞きなさるけん素直っていうわけにはいかんのです。もちろん、その言うこと聞くていうことは、自分を空しゅうしとるからね、自分の都合なんか言わんと。
「私はまだこげな用があります」っちこう言うならもう、それでおしまいですけれども、自分の用なんかはもう空しゅうしていく。「はい!」というその心。ね。ま、それが素直なんです。言うこと聞くていうことは素直ですけれどもです、ね、信心でいう素直、これは、いよいよ自分というもんが空しゅうならなければ、信心でいう素直ということにはなれんのです。ね。
私ども昔の、あのー、おー、御理解集第一章の中に確かにあったと思うんですけれども、私はこうやって現在おかげを受けておる。20年前の御理解、ね。はあ、例えばここに、家があり、家蔵財産がもしここにあるとするならば、この家蔵財産はね、私の「はい!」という信心から生まれたんだということを言っておりますですね。
この家も蔵も財産も全部、私の「はい」という、泣く泣くでも「はい」と言えた、そこからこの家蔵財産は生まれておるんだという意味のことがありました。ね。
いわゆる、泣く泣くでも、自分を空しゅうした(?)です。そこから、この家蔵財産が生まれたんだと、こう(言ってる?)。神様の前に、もうそれこそ言い訳はできなかった、泣く泣くでもそれを「はい」と言うてきた。そこから、この家蔵財産が生まれたんだというような、ね。
いわゆる、百引く零、ね。百マイナスのゼロ。そこにイコール百とおかげが生まれた(?)。ね。それがだんだんだんだん、もっとほんとなことへ育っていくことになってまいりまして、な、今日の合楽がまた、だからこれは、もちろんこのゼロということには、もうじっつに(※実の強め)限りがない。私はここに円を書いて、こう、こんなふうに書いていましたけども、とても限りがないのです。ね。
これがおかげの元にならんのだろう、これを(?)ということはもう、信心を深めていけば、もう限りがないほどにあるのです。ね。ですから、百を頂くことは、まずまずできないでしょうけれども、目指すところはこの百なのです。ね。
もうつまらーん人間の知恵とか力とかね、もう、もう実にそりゃもう、その、それはね、もうやっぱりそれは我情に過ぎないのですからね、自分の思いに過ぎない。どんなに素晴らしい知恵をもってしても。ね。
ですから私は、自分本位の考え方から神様本位の考え方になんなさいち。ね。そこからね、神様が今度は私どもが神様本位になるから、神様が、いわばいよいよ乗り出してくださる、いわば氏子本位になってくださるんだと。いうふうに、えー今申します。それも、やはりこの今日の御理解に、の内容であるとこう思うのです(けど?)。
今日は皆さん一つこのことを、皆さんのその手帳に、ま控えられてですね、一つこの(笑)、円、丸い円も書いてみてです、ね、自分は果たしてこの百という中のいくつを頂いておるだろうかと。その、おー、円をですね、例えば真っ黒くくり、ゆくり、塗りつぶしておるものは何だろうか、自分の。
これをね、黒いところを消していく、だんだん白いところを多くしていくという精進。ね。なかなかできん、けれども事がある時、「信心しておってどうしてこのような」という時、いよいよです、ね、これはまだ信心が足りんのじゃと思うてという、これはまあだ私の改まりが足りんのじゃと思うて、一心に信心していけば、そこからおかげが受けれる、おかげが頂けれる。ね。
同時に、私は今日は申しましたですね。いわば他力の働きにすがる、ね。いわば(?)今日こうやってお話しとるけども、その水持ってください、(いて?)ください、と言わんでええくらいに、口の中が、その、まあ、あぁーぁ、ふつうのように爽やかじゃないですけども、口の中が爽やか、粘らない。ね。御神米のご威徳なのです。ね。
御理解前にお水を頂かずに、御神米を頂かしてもらう。そこには、改まりとか、ね、精進とかっていう何物もない。ただ神様に、ただ無条件にすがるだけ、お願いするだけ。そういう例えば信心とです、私どもはただ今、これはまあだ私の信心が足りんからじゃという一心の信心と、この2つが相俟ってですね、いわば、いよいよ、おー、百を百足らしめるためのね、おかげを頂いていかなければならない、そこを願いとしての信心になっていかなければならないと思うのです。どうぞ。